おはぎ
粒餡の小豆の皮が点々と散っている様子が、小さな萩の花が咲き乱れる様子に似ていることから「萩の餅」「萩の花」と呼ばれていたものを、(中世の宮中の)女官などの言葉使いで「おはぎ」と呼んだことに由来するといわれています。江戸時代には「隣知らず」と呼ばれていたこともあります。餅というのに臼でつかずにつくるため、‘ぺったんぺったん’と餅をつく音がしないので、隣に住んでいる人が気付かないうちにできあがることからこう呼ばれました。
桜 餅
塩漬けした桜の葉で餅を包むという当時として新鮮な工夫は、江戸時代、向島にある長命寺 (徳川家光の命名) の門番をしていた新六という人が発案しました。春になると桜の葉の掃除に苦労していた新六さんは、葉をなんとか利用できないものかと考えました。そこで塩漬けした桜の葉で餅を巻いて売り出したところ、大変に評判になったといいます。
桜餅の生地は2種類あることをご存知ですか? 関東では、小麦粉を水で溶いて平鍋で薄く焼いた生地に餡を包みます。関西では、「道明寺粉」でつくります。道明寺粉は、千年以上も前に、大阪の道明寺が発案した「道明寺糒(ほしい)」という、餅米を蒸して干してから粗く挽いたもので、兵糧(保存食・携帯食)として用いられたものです。現在では、関東関西を問わず「焼皮の桜餅」「道明寺粉の桜餅」両方が販売されています。
柏 餅
端午の節供(句)に無くてはならない菓子といわれる柏餅。柏の木は新芽が出ないと古い葉が落ちないという縁起から生まれました。子孫が居なければ家が途絶える武家社会では、子孫繁栄を象徴する菓子として喜ばれたのですね。端午の節供(句)に柏餅を食べる風習が根付いたのはこの縁起の良さのほか、餅で餡を包むときの手つきが、柏手を打つ動作に似てめでたいという意味もあったようです。
ちまき
ちまきは中国から伝わったものですが、おもしろい伝説があります。
紀元前4世紀頃、楚の国の王族、屈原(くつげん)という人が、王様の政治に絶望して、湖に身を投げて死にました。屈原の死を悲しんだ家族や村人は、毎年、屈原の死んだ5月5日になると湖に供物を捧げていました。ところがある日、村人の夢に屈原が現れ、湖には悪龍がいて、供物を横取りされるというのです。そこで村人たちは、葦の葉で供物の菓子を牛の角のような尖った形に巻いて、悪龍が食べないように工夫して捧げたといいます。その昔、ちまきを「角黍」と書いたことも、この言い伝えを聞くとうなずけます。
日本では、牛の角のような形のほかに、ひし形、三角形、俵型など、各地に伝統的な形のちまきがあります。大切な穀物でつくったちまきを、ハレの日に神聖なものとして食べる風習が同時発生的に起こり広まって、それが屈原の伝説や端午の節供と結びつき、5月5日に食べられるようになったと考えられます。
団 子
加工品としての団子の原型は、縄文時代までさかのぼることができます。当時は、どんぐり、くぬぎ、トチの実などをすり潰して粉状にして水に漬け、アク抜きしてから粥状や団子状にして食べるようになったことが始まりといわれます。団子という名前については、中国の菓子「団喜」から転じたという説、中国の団子(トゥアンズ)という餡入り団子が起源、丸いという意味の「団」と「子」が組み合わされたものなど、諸説あります。
歴史の中で育まれてきただけに、小さな団子が串にさしてあるものもあれば、ひとつで大きな団子もありますし、きび団子、花見団子、よもぎ団子、洲浜団子、坊ちゃん団子、蕎麦団子、糸きり団子など多くの種類があります。
羊 羹
中国から茶と共に伝わった点心「羹(あつもの)」がルーツといわれる羊羹。元々は、羹という字のとおり羊の肉片が入った「汁もの」でした。当時、獣肉食を嫌った日本では、その汁の中に羊の肉に似せたものを小麦粉や小豆などでつくり入れていました。その汁から中味が取りだされたものが羊羹のはじまりで、当初は蒸し羊羹でした。煉羊羹は江戸時代寛政の頃 (1800年頃) に寒天が発見されたことにより新たに誕生したものです。「本煉り」「小倉」「栗」などの代表的なもののほかに、全国各地に様々な羊羹があります。例えば、北海道には特産の昆布を生かした「昆布羊羹」。佐賀県には「小城羊羹」。愛知県には尾張の殿様に献上したことから名付けられた蒸羊羹の一種で、とても柔らかい「上り(あがり)羊羹」など。特産物や歴史にいわれを持つものなど地方色豊かです。買うときに、由来を尋ねてみるのも楽しいものです。
最 中
古くは干菓子で現在の最中の皮の部分だけのものでしたが、のちに餡をはさんだり入れたりするようになりました。最中の名は、平安時代の『拾遺和歌集』にある源順(みなもとのしたごう)の歌、「水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋の最中なりけり」に由来するといわれます。
皮の形状に工夫ができて様々な餡が使える最中は、各地に銘菓があります。旅行の際には、旅先の最中に注目してみるのも一興です。
きんつば
きんつばというと四角いものがおなじみですが、もともとは刀の鍔(つば)のように丸い形をしていました。現在でも丸いきんつばをつくり続けている老舗もあります。
きんつばは、大阪で生まれて「銀鍔」の名で売られていた菓子です。当時の大阪の銀鍔は周りに米の粉をまぶして焼いたので焼き色がつきにくかったことから銀鍔でしたが、江戸では小麦粉を水溶きにして、それをまぶして焼いたため、若干焦げ色がつき、金色にみえたことと、‘銀より金が上’とのことできんつばと呼ばれるようになりました。おもしろいことにその後、発祥の地大阪でもきんつばという名で定着しました。
四角いきんつばは、餡に寒天を加えて型に流し入れて固め、四角く切ります。そして、それぞれの面に水溶きした小麦粉や白玉粉を付けて焼いてつくります。六面を焼くので「六方焼き」とも呼ばれています。
落 雁
落雁という趣きのある菓銘には諸説あります。
落雁は、昔は「らくかん」と称したようです。菓子自体は中国からの伝来といわれ、名の由来についても、中国の「軟落甘(なんらくかん)」という菓子が、日本に伝来してから「落甘」と略して呼ばれるようになり、さらに「落雁」と書くようになったとの説があります。
また、江戸時代文禄年間(1592年~1595年)の頃、米の粉を四角に固めて黒ゴマを散らした菓子を時の帝に献上したところ「白山の雪より高き菓子の名は、四方の千里に落つる雁かな」との御製を賜ったことから、以降、「落雁」と呼ぶようになったという説もあります。他に越中井波の瑞泉寺を開いた綽如(しゃくにょ)上人が北陸に出向いたとき、雪の上に雁が降り立つ様子を見て命名したという説。また、蓮如(れんにょ)上人が石山寺にて近江八景の瀬田あたりに雁が降りるところを見たてたという説。加賀藩三代目前田利常が指示して意匠させて後水尾天皇に献じたところ賜った菓銘であるという説などがあります。
大 福
大福は、もとは「腹太餅(はらぶともち)」と呼ばれたという説もあります。腹持ちが良いという意味だと推測されますが、もともとは家庭でつくられていました。店で売られるようになったのは江戸時代のことで、小石川あたりに住んでいたおたまさんという人が最初に商ったといわれています。
最近では、硬くならず日持ちのよい大福も売られていますが、本来は餅でできているので、時間がたつと硬くなります。昔は火鉢で温めて柔らかくして食べていました。焼くと香ばしくなるので、昭和に入っても大福は焼いて食べるのが当たり前の和菓子でした。硬くなってしまった時はお試しになってみるといいでしょう。